新潟地方裁判所 昭和49年(ワ)422号 判決 1980年7月18日
原告
佐藤良次
外四四名
右原告ら訴訟代理人
坂東克彦
同
小海要吉
同
渡辺昇三
被告
国
右代表者法務大臣
奥野誠亮
右指定代理人
根本真
外一五名
主文
一 被告は原告らに対しそれぞれ別紙一「認容金額一覧表」中「認容額(計)」欄記載の当該各金員及びこのうち「損害金」欄記載の金員に対する昭和四七年五月二七日から、「諸手当」欄記載の金員に対する昭和四九年一一月一八日から、「弁護士費用」欄記載の金員に対する昭和五四年一二月八日から、支払い済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用中、申立ての手数料はそのうち金五八万円を原告須貝満喜子の、金二〇万円を原告井崎ヨキ子の、金二万円を右原告両名を除くその余の原告らの、その余を被告の各負担とし、右申立ての手数料以外の費用はこれを五分し、その二を原告らの、その余を被告の各負担とする。
四 この判決は第一項に限り仮に執行することができる。
事実《省略》
理由
一浚渫船海麟丸とその乗組員
1 運輸省は港湾等に関する国の行政事務を一体的に遂行する責任を負う国の行政機関であつて(運輸省設置法第三条第三号)、港湾や航路の建設、改良、保存若しくは管理等を行う権限を有し(同法第四条第二五号)、本省内部部局の港湾局において港湾や航路の建設、改良、保存若しくは管理等に関する事務を掌理するとともに(同法第一九条、第二六条第一号、第二号)、地方支分部局の一つとして第一港湾建設局を置き(同法第三九条、第四七条)、これに本省の所轄事務のうち新潟、長野、山形、秋田、福井、石川、富山各県内の港湾等に関する直轄工事の施行、航路の建設、改良、保存若しくは管理等に関する事務を分掌させ(同法第四六条第一号、第二号)、第一港湾建設局の下に新潟港工事事務所を設置して局務のうち新潟(東、西)港における工事の実施等に関する事務を分掌させている(同法第五〇条、港湾建設局工事事務所等組織規定第一条、第二条、第一港湾建設局内部組織等に関する通達第六条第一項)。
2 <証拠>によれば、(1)海麟丸は港や泊地の浚渫工事を行うことを目的として昭和三九年一一月二〇日右石川島播磨重工業株式会社東京第二工場で建造され、昭和四〇年三月二〇日就航した船舶であつて、運輸省第一港湾建設局に所属し、秋田、酒田、新潟、伏木、富山の各港における浚渫工事に当つてきたこと、(2)その規模は、全長76.5メートル、幅13.50メートル、総屯数2,142.43トン、ホツパー(泥船)容量1,355.41立方メートル、航海速力11.78ノツト、最大搭載人員五〇名であつて、船体中央部の左右両舷に取り付けられたドラグアームを水底に降ろし、航行しながらその先端の吸入口(ドラグヘツド)を通して水底の土砂を船体腹部(泥艙)に吸い込み、これが満杯になると港外に出て土砂を排出(捨土)するという仕組(ドラグサクシヨン式)で浚渫工事を行うものであること、(3)通常、海麟丸には四八名の乗組員が乗船し、一週間を単位として月曜日出港、土曜日入港、その間乗組員は毎日交代制で二四時間連続して浚渫作業を行い、日曜日は停泊して整備に当たるという形態で運航されていたことが認められる。
3 そして、原告須貝満喜子の夫である亡和元、原告井崎ヨキ子の夫である亡錦治及び右原告両名を除くその余の原告らはいずれも「一般職の職員の給与に関する法律」別表第四海事職俸給表の適用を受ける国家公務員であつて、運輸省第一港湾建設局に所属し、海麟丸に乗り組んで同船による浚渫作業に従事していたこと、は当事者間に争いがない。
二触雷爆発事故の発生
<証拠>によれば、海麟丸は昭和四七年五月二二日午前八時四五分、鈴木繁首席船長以下四六名が乗り組んで運輸省第一港湾建設局新潟港工事事務所地内の専用岸壁を離岸出港し、同日午前一〇時五〇分新潟西港港口航路の浚渫作業に着手して以後、反復継続して同航路の浚渫工事を実施しているうち、同月二六日午前一一時五九分ごろ、第二次世界大戦中米軍が投下、敷設した残存機雷に左舷側のドラグヘツドが接触し、その衝撃による機雷爆発のため左舷外板底に大破孔を生じ、数一〇秒後に沈没したこと(但し、この点は概ね当事者間に争いがない)、が明らかである。そして、<証拠>によれば、新潟西港は信濃川の河口に設けられたいわゆる河口港であるところ、右事故が発生したのは同港の東防波堤灯台から二一三度、二三〇メートル、西防波堤灯台から一七五度、五一〇メートルの地点であつて、航路法尻から東防波堤方向へ六ないし七メートル寄つた水深約一〇メートルの法肩の部分であること、事故当日、海麟丸は、午前一一時五〇分ごろ、その日としては第八回目の浚渫作業準備を完了し、午前一一時五二分ごろ、同港灯浮標から一〇八度、二五〇メートルの地点付近において推進器翼角両舷前進七度、磁針針路二〇〇度の態勢で浚渫作業を開始したこと、しかし、当時、新潟・佐渡航路の旅客船「なみじ丸(760.46トン)が正午に出航する予定になつていたため、海麟丸はその前に船体の向きを変え(回頭)、港外に出なければならない状況にあつたので、午前一一時五四分ごろ、両舷のドラグアームを水深一〇メートルのところまで引き揚げ(繰り込み)、浚渫ポンプの作動を停止して一旦作業を中止したこと、そして、午前一一時五八分ごろ、同港灯浮標を左舷約三〇メートルの地点に見て航過し、信濃川流堤下端(磁針針路二〇〇度)に船首を向け、船尾が灯浮標の上流側二〇メートル程度に変つたところで回頭を開始しようとしたところ、上流から一隻の漁船が接近してきたので一旦回頭を中止して上流へ向つて航行し、午前一一時五八分ごろ、再び回頭しようとしたところ、さらに上流から一隻の漁船が近付いてきたので回頭を思い止まり、そのまま航行を続けたこと、すると、しばらくして、左舷側ドラグアームの操作員かんドラグヘツドが接地したとの報告があつたので、三席船長飯田秋雄においてドラグアームの繰込みを命じた直後、大音響に伴なう強烈な衝撃が左舷船橋からやや船首寄りの船底に感じられ、海麟丸は船底が左舷側に傾斜しつつ急速に沈没し始めたこと、が認められる。
右事故当時、亡和元、同錦治及び原告須貝満喜子、同井崎ヨキ子、同阿部仁三郎、同長谷川常光、同星野松夫を除くその余の原告らはいずれも海麟丸に乗船していて事故に遭い、事故の際の衝撃で、亡和元は後頭部骨折の傷害を負い失神中浸水により溺水死し、同日午後四時三〇分ごろ、その死体が収容されたこと、又、亡錦治は船体の一部に後頭部を強打し失神するか行動の自由を失つたため浸水により窒息(溺水)死し、事故の五日後である同月三一日午前一〇時五八分ごろ、その死体が収容されたこと、そして、右その余の原告らは別紙三「原告らの算出表」別表8中該当欄記載<略>の傷害をそれぞれ負つたこと、は前示<証拠>に徴して明らかである。
三新潟西港とその付近海域における第二次世界大戦中の米軍機による機雷の投下、敷設、戦後における掃海及び航路整備の状況
<証拠>によれば、次の事実が認められる。すなわち、
1 第二次世界大戦中、米軍は日本側の補給路を遮断しその戦力の低下を計るため日本海沿岸海域と港湾に数多くの機雷を投下、敷設した。新潟西港周辺においては、昭和二〇年五月ごろから終戦に至るまで米軍爆撃機B29が再三飛来し、機雷の投下、敷設が繰り返された。そのため新潟西港及びその付近海域では戦時中の昭和二〇年六月から終戦後の同二二年九月までの間に一七件の機雷による船舶の触雷爆発事故が発生している。
2 これらの機雷の掃海は終戦後本格的に行われ、新潟西港及びその付近海域については昭和二〇年一〇月一二日から同三五年九月五日に至るまでの間において海上保安庁、防衛庁(海上自衛隊)等によつて繰り返し実施された。その方法は、木造の掃海艇が磁気コイルケーブル等を曳航し、これに電流を通じてあたかも鋼船が通つた時と同じような感応を起こさせて機雷を誘爆させるというものである。そして、このような掃海の実施に伴い、昭和二七年二月一日には第九管区海上保安本部長名で「新潟港は既に掃海を完了し、日本船舶の航行に対して開放されていたが、昭和二七年一月一五日付をもつて航路告示第五号により、すべての船舶の航行に対し開放された。よつて、ここに新潟港の安全を宣言する。」とのいわゆる安全宣言が発せられたほか、昭和二七年二月二日付航路告示第五号、昭和二九年四月二四日付航路告示第一六号、昭和三六年五月二〇日付水路通報第二〇号によつても船舶の航行の安全が確認された。しかし、右のような方法による掃海が実施されたのは実際には航路筋のみについてであつて、航路法部を始めそれ以外の部分は水深が浅く掃海艇の航行が困難であつたし、航路外を一般船舶が航行することはないという理由で掃海が省略された。
3 ところで、新潟西港は信濃川の河口に設けられたいわゆる河口港であるため上流から流出する土砂の堆積により港内が埋没し、港としての機能が低下するという宿命を負つている。特に戦時中は港内の浚渫も思うにまかせず、このため終戦当時の港口航路は、幅が僅か五〇メートルにも足りず、水深はせいぜいマイナス三ないし五メートルと極めて浅くなつていた。戦後被告・国は、このように衰退した港の復旧を計るため昭和二一年に航路の拡幅増深工事に着手し、以来、毎年ポンプ式、バケツト式及びその他の浚渫船を投入して土砂の浚渫をした結果、昭和四〇年には現在の港口航路規模である幅員一五〇メートル、水深マイナス11.5ないし12.5メートルまで浚渫が完了し、航路水深マイナス一〇メートルを確保することが可能となつた。しかしながら、新潟西港は河口港としての宿命から流下土砂による港内の埋没は依然として避けられず、右のような航路の規模を維持するためには昭和四〇年以降においても毎年約一〇〇立方メートルの土砂の浚渫を続けていかなければならなかつた。
との事実が認められ、これに反する証拠はない。
四全国各地の港湾等で発生した浚渫船の触雷爆発事故を契機とする関係行政機関による事故防止対策
<証拠>によれば、次の事実が認められる。すなわち、
1 防衛庁の調査によると、第二次世界大戦中に米軍が日本海沿岸海域に投下、敷設した機雷は一一、〇八〇個、このうち新潟西港及びその付近海域には七八一個が投下、敷設されたと推定されているが、これらの機雷は前認定のような掃海によつてその実施区城から完全に除去されたわけではない。事実、新潟西港内においては、いわゆる安全宣言が発せられた後においても、前認定の拡幅増深工事が進められる過程において、昭和二九年四月一三日東防波堤灯台から一五八度、八一〇メートルの地点で、昭和三一年五月一八日西防波堤灯台付近で、同年九月一四日日石ドルフイン付近で、昭和三九年五月一三日導流灯標から五四度、二三〇メートルの地点で、それぞれ浚渫船による浚渫作業中に機雷が発見されている。防衛庁の調査によると、右投下、敷設された一一、〇八〇個の機雷のうち五、九五四個は昭和三九年末までに掃海によつて除去されたが、あとの五、一二六個、このうち新潟西港及びその付近海域には三八一個がいまだに発見されず、後の調査でも昭和四四年度末の時点で三七七個が残存しているとされていた。
2 これらの残存機雷は、投下、敷設後七、八年が経過した時点で感応装置が作動しなくなり機雷としての機能は失われるが、その炸薬は健在であつて、衝撃を加えればいつでも爆発する威力を有しており、本件事故が発生するまでにも全国各地の港湾等で浚渫船の触雷爆発事故が五件も発生している。その最初は昭和三二年一一月二日戸畑泊地で発生した民間の浚渫船小松丸の事故であつて、触雷により同船は沈没し、乗組員五名が負傷した。二番目は昭和四〇年八月五日下関港福浦泊地内での民間の浚渫船長府丸の事故であり、触雷により同船は破損し、乗組員八名の負傷者を出した。そして、昭和四五年には短期間に三件の事故が相次いだ。同年三月二九日の関門港若松航路での民間の浚渫船住ノ江丸の触雷によるカツター破損事故、同年五月九日の響灘泊地での民間の浚渫船第一東洋丸、同白進丸の触雷による浸水、乗組員四名負傷の事故、及び同年九月一九日の伏木富山港新湊地区での民間の浚渫船金竜丸の触雷によるカツター破損事故がすなわちそれである。
3 昭和四〇年八月五日の下関港福浦泊地での事故を契機として、海上保安庁は、防衛庁に対し(1)第二次世界大戦中米軍が日本海沿岸海域に投下、敷設した機雷の処理状況及び残存機雷の状況、(2)未掃海海域及び既掃海海域における浚渫作業に伴う危険度等について照会をしたうえ、その回答に基づき、今後機雷が残存していると思われる海域において、浚渫作業、杭打ち作業等海底に衝撃を与え、又は海底を攪拌するような工事、作業が行われる場合には、港長等は、当該工事、作業の実施責任者からその実施について許可申請があつたときは、その海域について防衛庁による磁気掃海が完了していること、この措置がとられた海域であつても、当該海域内に当該工事、作業の実施に伴い危険が予測される海域であると認められる場合は、その海域が当該工事、作業関係者等により磁気探知装置等による探査が行われ、安全性が確認されていることという条件が満たされる海域に限りこれを許可するとの方針を決定し、昭和四一年三月一日、警備救難部長名でこのことを管下の各港長等に指示するよう各管区海上保安本部長あてに依命通達を発するとともに、防衛庁防衛局長及び運輸省港湾局長にもこのことを通知した。しかし、この方針に対しては、運輸省港湾局長から地形、水路等の状況によつては、これにより難しい場合もあるとして実際に即した運用方の要望があり、協議の結果、海上保安庁は、防衛庁の見解をも質したうえ、一定の条件のもとに終戦後、維持浚渫工事がしばしば実施されてきた区域内で維持浚渫工事を施行するときは磁気探査等を省略することができるとして、右方針の一部を緩和し、このことは昭和四一年九月二八日付で海上保安庁警備救難部長から各管区海上保安本部長あてに、同年一一月二九日付で運輸省港湾局長から各港湾建設局長等あてに、それぞれ通知された。ところが、昭和四五年に浚渫船による触雷爆発事故が三件も相次いだことから、昭和四五年一〇月一四日、運輸省、防衛庁、海上保安庁等の間で関係各省連絡会議が開かれ、港湾工事によつて海底を攪拌するような工事、作業が行われる場合には、運輸省港湾局、海上保安庁等は、機雷が残存すると推定される海域で行われるこのような工事の施行に当り確実に機雷の探査を行うよう今後とも十分指導すること等を内容とする「残存機雷問題の対処方針」を決定し、このことは同年一二月四日、運輸省港湾局長から各港湾建設局長あてに通知された。
4 これに従い運輸省第一港湾建設局の管内でも伏木富山港、酒田港などで浚渫工事に先立ち磁気探査等が実施され、伏木富山港においては、昭和四六年三月三〇日、磁気探査とこれに続く潜水探査によつて機雷が一個発見されている。しかし、新潟西港については既に掃海が完了しており、海麟丸による同港港口航路の浚渫は拡幅増深工事によつて既に警備が完了した航路の水深と幅員をその中に堆積する土砂を取り除いて一定の規模に維持するためのいわゆる維持浚渫であつて、同航路については昭和四〇年三月以降繰り返し同様の浚渫工事が実施されてきたという見地から本件事故以前には磁気探査等は実施されなかつた。
との事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
五海麟丸による浚渫作業
<証拠>によれば、次の事実が認められる。すなわち、
1 運輸省第一港湾建設局の内部においては、海麟丸は新潟港工事事務所の所属とされ、直接的には同工事事務所長の支配管理下に置かれ、その乗組員もまた同工事事務所長の指揮監督の下に職務の遂行に当つている。海麟丸による浚渫工事は、運輸大臣の第一港湾建設局長に対する施行命令、同港湾建設局長の新潟港工事事務所長に対する施行命令、同工事事務所長の船長に対する運行命令に基づいて実施されるわけであるが、運輸大臣の第一港湾建設局長に対する施行命令は、各会計年度の頭初において、その年度中に管下の各港湾等で施行すべき工事の名称、種類及びそれに要する費用の予算額を包括的に示達するという方式で発せられる。これを受けた第一港湾建設局では予め新潟港工事事務所長から提出された資料等をもとにして工事の内容、予算額等を具体的かつ詳細に調整して実施計画を策定する。第一港湾建設局長の新潟工事事務所長に対する施行命令はこの実施計画を提示するという方式で発せられるのであり、これに基づいて新潟港工事事務所では事務所側から第一工事課長、第二工事係長、作業船管理官及び工事専門官が、船舶側から首席、次席、三席の各船長及び事務長がそれぞれ出席して、原則として、毎月一回功程会議が開かれ、ここで向う一か月間の工事の施行区域、順序、方法等が検討され「功程表」が作成される。新潟港工事事務所長の船長に対する運行命令はこの「功程表」を示すことによつて発せられるわけであり、これに基づく操船、浚渫作業の実施等はすべて船長に任かされている。
2 ところで、海麟丸による新潟西港港口航路の浚渫は、前認定のようにして拡幅増深工事が実施され既に整備が完了した航路の水深と幅員をその中に堆積する土砂を取り除いて一定の規模に維持するためのいわゆる維持浚渫に主眼が置かれているわけではあるが、海麟丸は船体を一定の個所に固定せず航行しながら浚渫を行うものであるため作業中信濃川の河流や海流によつて船体が押し流され、進行方向に擦れが生ずることもないではなく、本件事故当時、水面上には航路の範囲を示す目印となるような施設は設置されておらず、作業の現場では専ら図面に基づいた船長の判断によつて浚渫個所が指示されたので、時には航路を外れた部分を浚渫することもないとはいえず、航路の法尻部分を浚渫する場合などは特にその可能性が大きい。又、いわゆる維持浚渫は航路の水深と幅員を一定の規模に維持することを目的とするのであるから所定の水深以上に、又航路外の部分を浚渫する必要はないわけであるが、海麟丸によつて航路法尻部に堆積した土砂を完全に除去して法尻部においても所定の水深を確保するためにはどうしても航路をはみ出て法尻部から法肩部へかけての土砂を浚渫せざるを得ないし、その方が作業効率も上がるので、法尻部付近を浚渫するときは航路の内外の区別なく付近一帯を浚渫していたのが実情である。のみならず、航路内において一定の水深を確保するためには所定の水深までの土砂を浚渫したのでは必ずしも十分ではなく、実際にはそれよりも深めに土砂の浚渫が行われていた。
3 海麟丸による新潟西港港口航路の浚渫は昭和四〇年三月以降毎年実施されてきたのであるが、航路筋に比べて法部寄りの部分は全体に浅くなつていて水深の起伏もあり浚渫がしにくかつたため掘り残しができ、法尻部付近は計画施工水深に達していなかつた。そこで、昭和四六年三月の功程会議においては、同年度からは掘残しがあつて土砂の堆積が多い法尻部付近を重点的に浚渫し、航路全体について一定の水深を確保することが決定され、新潟港工事事務所長から船長に対してその旨が具体的に指示された。本件事故当時、海麟丸はこの指示に従い航路の新潟西港東防波堤寄りの法部付近の埋没土砂の浚渫を実施していたものである。
との事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。
六被告・国の安全配慮義務違背
国は国家公務員に対し、国が公務遂行のために設置すべき場所、施設若しくは器具等の設置管理又は国家公務員が国若しくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理に当つて、国家公務員の生命及び健康等を危険から保護するよう配慮する義務を負うものである(最高裁判所昭和五〇年二月二五日第三小法廷判決、民集第二九巻第二号一四三頁参照)。そして、この義務は、その本来の職務権限の行使として、或いはそのような職務権限を有する上司の命を受けて、現実に公務遂行のための物的施設の設置管理又は国家公務員によつて遂行される公務の管理に当る者が、国の履行補助者として履行すべきものと解されるのであり、その具体的内容は、その者の地位、職種、支配管理の対象となる物的施設や公務の性質等、具体的状況によつて異なるものである。そこで、これを本件についてみるのに、先にみたように新潟西港及びその付近海域については、終戦後、海上保安庁等によつて繰り返し機雷の掃海が実施されたものの、これによつてその実施区域から米軍が投下、敷設した機雷の全てが除去されたわけではなく、防衛庁の調査によれば、昭和四四年度末現在において新潟西港及びその付近海域にはなお三七七個の機雷が残存するとされ、これらの機雷は感応装置こそ作動しなくなつてはいても炸薬は健在であつて、衝撃を加えれば爆発する威力を有していたものである。これによれば、本件事故当時、新潟西港にはそこで水底に衝撃を与え、或いは水底を攪拌するように工事、作業が行われる場合、残存機雷による触雷爆発事故の発生する危険性が客観的に存在していたのであつて、右掃海に伴い第九管区海上保安本部長名で発せられたいわゆる安全宣言等は、新潟西港における船舶の航行の安全を公に確認したものであつて、右のような工事、作業の安全までも保障するものではないことは多言を要しないところである。運輸省第一港湾建設局新潟港工事事務所は、同港湾建設局の局務のうち新潟(東、西)港における工事の実施等に関する事務を分掌する行政機関なのであるから、その長の職にある者としては、同工事事務所で実施する工事の安全を確保する見地から第二次世界大戦中に米軍が新潟西港及びその付近海域に投下、敷設した機雷の戦後における処理状況等について重大な関心を抱くのは極めて当然のことであり、そうすれば、右のような危険性の存することは容易に認識し得た筈である。もつとも、海麟丸による新潟西港港口航路の浚渫は、拡幅増深工事によつて既に整備が完了した航路の水深と幅員とをその中に堆積する土砂を取り除いて一定の規模維持するためのいわゆる維持浚渫に主眼を置くものであつて、同航路については昭和四〇年三月以降繰り返し同様の浚渫工事が実施されてきたわけであるけれども、前認定のとおり、本件事故当時、新潟西港内の水面には航路の範囲を示す目印となるような施設は設置されておらず、又、海麟丸の浚渫船としての性能、作用技術ないし作業効率上から実際には航路を外れた法部の部分や所定の水深よりも深い部分まで浚渫することも少なくなかつた。特に昭和四六年度以降は航路法尻部付近を重点的に浚渫することが右新潟港工事事務所の功程会講で決定され、同工事事務所長から船長に対してその旨が具体的に指示されたためその後は法尻部付近に重点を置いて浚渫作業が行われていたことからすれば、これが航路を外れ法肩部にも及ぶ可能性は極めて大きかつたのであり、このような事実に徴すれば、海麟丸による新潟西港港口航路の浚渫がいわゆる維持浚渫であつて、同航路について従来繰り返し同様の浚渫工事が実施されてきたということから直ちに残存機雷による触雷爆発事故の発生するおそれはないと断言することはできない筋合である。のみならず、本件事故の二年ほど前の昭和四五年には全国各地の港湾等で浚渫船の残存機雷による触雷爆発事故が三件も相次ぎ、これを契機として開かれた関係各省連絡会講では「残存機雷問題の対処方針」の一つとして機雷が残存すると推定される海域で行われる浚渫工事等の施行に当つては確実に機雷の探査を行わせることが決定され、運輸省の下部機関にも本省を通じてこのことが示達されていたこと、そのほか海麟丸がドラグサクシヨン式の浚渫船であることからして水底に降ろしたドラグアームのヘツドが航路法肩部などに衝突することもないではなく、ドラグへツドの重量からしてその場合の衝撃は少なくないことを考え合わせれば、海麟丸を面接その支部管理下に置き、乗組員を指揮監督する地位にある右新潟港工事事務所長としては、海麟丸による新潟西港港口航路の浚渫の場合でも残存機雷による触雷爆発事故の発生することもあり得ることを想定して、予め航路法部一帯を含めてその浚渫区域について磁気深査等を実施し残存機雷が存在しないことを確認した後、その乗組員をして海麟丸による浚渫作業に着手させるべきであつたのである。従つて、これをしなかつたのは同工事事務所長において被告・国が国家公務員である海麟丸の乗組員に対して負担する安全配慮義務の履行を怠つたものというほかはなく、被告・国は右乗組員らに対しそのために生じた損憲を賠償する義務がある。
七原告らの損害等
1 原告佐藤良次の関係
(一) 得べかりし諸手当収入
金一四万三六二五円
海麟丸は事故のあと引き揚げられて修理、改造され、昭和四九年一一月、「白山丸」と名を変えて再び就行したのであるが、その間原告佐藤良次は正規の海上勤務に就くことができず、そのため事故がなく海麟丸による浚渫作業が正常に続けられていたならば当然に支給された筈の夜勤手当、航海手当等の支給を受けることができなかつたこと、は弁論の全趣旨に徴して明らかである。しかし、同原告が右の期間正規の海上勤務に就くことができなかつたのは、前述のとおり、被告・国が、同原告ら海麟丸の乗組員をして同船による浚渫作業に着手させるに先立ち、その浚渫区域について磁気探査等を実施し残存機雷の有無を確認すべきであるのに、これをしないで本件事故を発生させたからであつて、専ら被告・国の責に帰すべき事由によるものである。従つて、被告・国は右の期間同原告が正規の海上勤務に就かなかつたからといつてその間の右諸手当の支給義務を免れるものではないと解されるところ、事故後の昭和四七年六月一日から同四九年一〇月三一日までの間に同原告に対して支給される筈の諸手当が別紙三「原告らの算出表」別表9<略>の該当欄記載のとおり金一四万三六二五円であることは被告・国の認めて争わないところである。
(二) 慰藉料 金五二万円
前認定のとおり、原告佐藤良次は本件事故により別紙三「原告らの算出表」別表8<略>の該当欄記載の傷害を負つたところ、<証拠>によれば、そのため同原告は昭和四七年五月二六日から同年六月一三日まで長谷川病院に入院し、翌一四日から昭和四八年五月二三日までの間同病院及び新潟大学附属病院に合せて三〇日通院して治療を受けたこと、にもかかわらず、同原告には難聴、両耳鳴の後遺障害があり、その程度は国家公務員災害保償法に基づく障害等級第一四級第九号に該当することが認められる。以上の事実によれば、同原告が右傷害及び後遺障害のために蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料は、傷害に関する分として金二二万円、後遺障害に関する分として金三〇万円、計金五二万円とするのが相当である。
右(一)(二)を合せると、原告佐藤良次の本件事故に起因する損害等は金六六万三六二五円である。
2 原告須貝満喜子の関係
(一) 亡和元の逸失利益金
金五六九七万八二二〇円
(1) 得べかりし給与収入
金四二四九万八三七〇円
亡和元は本件事故当時、四五歳であつて、運輸省第一港湾建設局新潟港工事事務所に勤務し、海麟丸の次席船長の職にあつて、「一般職の職員の給与に関する法律」別表第四海事職俸給表(一)一等級八号俸が適用され、毎月本俸金一四万四六〇〇円、特別調整額金二万三一三六円、扶養手当金三二〇〇円の支給を受ていたほか、国家公務員の給与関係法令に基づき期末・勤勉手当、寒冷地手当、航海日当を支給されていたことは当事者間に争いがない。そして、<証拠>によれば、過去において、亡和元と類似した地位、職種等にあつた国家公務員は、概ね六〇歳を中心としてその前後数年の間に勧奨を受けて退職していることが認められ、又、近時、一般職の国家公務員についての六〇歳定年制を設けようとする動きが現実味を帯びつつあることは公知の事実であり、これらの事実からすれば、本件事故が発生しなければ、亡和元は少くとも六〇歳に達する年度まで(昭和六三年三月末日)あと一五年間は勤務を続けることが可能であつたと考えられる。ところで、右給与に関する法律第八条六項によれば一般職の国家公務員は一二か月間勤務を続けると、その給与号俸が一号上昇する(定期昇給)ところ、亡和元については毎年七月にこの昇給が実施されていたことは当事者間に争いがない。従つて、生存していれば、同人は昭和四七年七月一日付で一等級九号俸に昇給し、以後毎年七月一日付で一号ずつ上位の号俸に昇給するが、昭和五七年七月一日付で最高の一等級一九号俸に到達するので右給与に関する法律第八条第八項、人事院規則九―八第三五条によりその次は一八か月後に枠外一号俸に、以後は二四か月毎に枠外の一号ずつ昇給する。ところで、本件事故後、人事院勧告に基づき、本俸額について昭和四七年度から同五三年度までの間毎年度いわゆるベースアツプが実施され、俸給表の金額が改訂されていたところ、生存していれば、亡和元についても改訂後の俸給表に基づいて給与が支給されたであろうことは明らかである。
そのほか、一般職の国家公務員については右給与に関する法律第一〇条の二、人事院規則九―一七第二条によつて算出される特別調整額、右給与に関する法律第一九条の三、同条の四、人事院規則九―四〇第四条の二によつて算出される期末・勤勉手当及び国家公務員の寒冷地手当に関する法律によつて算出される寒冷地手当がそれぞれ毎年支給され、又、右給与に関する法律第一一条によつて扶養手当も支給されるが、亡和元の場合子供の分については昭和五三年八月までで、それ以後は支給対象とならないことは当事者間に争いがない。そして、その支給金額は昭和四七年度から同五三年度までは毎年度改訂され、生存していれば、亡和元についても改訂後の金額が支給されたであろうことは疑いのないところである。
又、亡和元についてはその勤務の特殊性に鑑み右給与に関する法律第一三条に基づき人事院規則九―三〇の定めるところによる航海日当が支給されるが、生存していれば、同人に対して支給されたであろう航海日当のうち昭和四七年度から同五三年度までの各年度の支給金額を原告主張のとおりとみることは被告・国の認めて争わないところであり、昭和五四年度以降も前年度を下回ることのない金額が支給されるであろうと考えられる。
そして、原告須貝満喜子本人尋問の結果によれば、亡和元の家庭は妻と子供二人(いずれも女子)の四人暮らしであつて、その生計は同人の収入によつて維持されていたこと、が認められ、これに同人の事故当時の年令、職業、職場での地位等を合せ考えると、生活費等として同人のために費やされる分はその収入のうち四割とみるのが相当である。そこで、これを各年度の収入金額から控除し、年別ホフマン式に計算法より年五分の割合による中間利息を控除して亡和元が六〇歳に達するまでに得るであろう給与収入の事故当時の現在価額を算出すると、別紙五の(一)「亡和元の得べかりし給与収入」<略>記載のとおり、その金額は金四二四九万八三七〇円になる。
(2) 得べかりし退職金収入
金一四四七万九八五〇円
本件事故がなければ、亡和元は六〇歳に達する年度末の昭和六二年三月末日まで勤務を続けることができると考えられることは前述のとおりであるところ、この場合同人の勤続年数が三五年以上となることは当事者間に争いがない。そこで、国家公務員退職手当法第五条、第六条、同附則第五項、給実甲第三六二号の規定に基づき、同人が六〇歳まで勤続したとして、退職時の俸給月額(一等級枠外五)をもとにして、同人が支給を受けるであろう退職金額を算出し、これからホフマン式計算法により年五分の割合の中間利息を控除してその事故当時の現在価額を算出すると、次のとおりその金額は金一四四七万九八五〇円となる。
ところで、原告須貝満喜子は、右得べかりし給与収入及び退職金収入の算定に当つては昭和五四年度以降も本俸について毎年少くとも五パーセントのベースアツプが実施されるものとしてその分も見込むべきであると主張するが、ベースアツプは経済の成長発展に伴い賃金ベースを引き上げることによつて賃金労働者の生活水準を実質的に向上させる一面のあることも強ち否定はできないが、しかし、経済情勢の変動、特に貨幣価値の下落に伴い実質賃金が低下するのを名目賃金を引き上げることによつて補う側面のあることも見逃せない。そして、今日の経済情勢のもとにおいて実施されているベースアツプはそのほとんどが後者の意味合いの強いものであることを考えると、将来において実施されるベースアツプによる名目賃金の上昇分をホフマン式計算法により現在価額に引き直しこれを得べかりし収入として現在の時点で支払いを受けるものとすれば、不当な利得をする結果となるので、右得べかりし給与収入及び退職金収入の算定に当り、将来実施されるべースアツプによる本俸の上昇分を見込むのは相当でない。
又、原告須貝満喜子は、亡和元については将来とも七年に一回の割合で特別昇給が行われると主張するが、「一般職の職員の給与に関する法律」第八条第七項による特別昇給は、勤務成績の特に良好な職員に限つて特別に実施されるものであつて、定期昇給のように相当程度の蓋然性をもつてその実施が予期されるものでもないので、右得べかりし給与収入及び退職金収入を算定するに当りこれを見込むのは当を得ない。
又、一方、被告・国は、右得べかりし給与収入及び退職金収入の現在価額を算定するについてはライプニツツ式計算法によるべきものと主張するが、亡和元の本件事故当時の年令、勤続可能期間等を合せ考えると、ホフマン式計算法によつたからといつて必らずしも合理性を欠くものとはいえない。
(二) 亡和元の慰藉料金八〇〇万円
本件事故の態様、亡和元の死亡当時の年令、家族構成その他審理に顕れた諸事情を合せ考えると、本件事故のため同人が蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料は金八〇〇万円とするのが相当である。
(相続)
亡和元にはその相続人として妻満喜子のほかに長女元子、次女和子の二人の子があることは当事者間に争いがないところ、<証拠>によれば、右三名の相続人の間では原告須貝満喜子が亡和元の被告・国に対する損害賠償請求権を単独で相続するとの遺産分割協議が成立していること、が認められる。
(損害の填補)
(1) 原告須貝満喜子が昭和四七年中に被告・国から亡和元の退職金として金六〇六万二六七〇円の支払いを受けたことは右原告の自認するところである。
(2) 原告須貝満喜子が昭和四七年六月から同五四年三月までの間に国家公務員災害補償法に基づく遺族年金計金九八一万六三〇九円の支給を受けたことは右原告の自認するところであり、これを年別ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現在価額に引き直すと金八一五万二三六五円となる。
(3) 原告須貝満喜子が昭和四七年六月から同五四年一一月までの間に別紙四「被告側の算出表」別表4'<略>記載のとおり国家公務員共済組合法に基づく遺族年金計金三九七万二七一九円の支給を受けたことは右原告の明らかに争わないところであるからこれを自白したものとみなすべきであり、これを年別ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現在価額に引き直すと金三三三万六〇一一円となる(なお、右現在価額の算定に当つては右別表中「共済組合実支給額」欄記載の初年度の支給額はそのまま現在価額とし、次年度以降の各支給額については中間利息を控除した)。
右(1)ないし(3)を合せると金一七五五万一〇四六円であり、これを亡和元の逸失利益から差し引くと、その残額は金三九四二万七一七四円である。
ところで、原告須貝満喜子は、右遺族年金についてはこれを亡和元の逸失利益から控除すべきではないと主張するが、国家公務員共済組合法に基づく遺族年金は国家公務員である組合員の収入によつて生計を維持してきた遺族に対して、右組合員の死亡のためその収入によつて受けることのできた利益を喪失したことに対する損失の補償と生活の安定を図ることを目的とし、その機能を営むものであつて、遺族の右給付によつて得られる利益は死亡した者の得べかりし収入によつて受けることのできた利益と実質的に同一同質のものということができ(最高裁判所昭和五〇年一〇月二四日第二小法廷判決、民集第二九巻第九号一三七九頁参照)、又、同法第四八条第一項が、共済組合が第三者の行為によつて生じた給付事由に対して給付を行つた場合には、給付価額の限度で受給権者が第三者に対して有する損害賠償請求権を取得する旨を規定している趣旨を考えると、遺族である原告須貝満喜子が相続した亡和元の得べかりし収入の喪失による損害賠償債権額を算定するに当つては、少くとも既に支給を受けた遺族年金相当額を発生した損害額から控除するのが相当である。
一方、被告・国は、右遺族補償年金及び遺族年金については既に支給された分のみでなく将来支給される分もこれを亡和元の逸失利益から差し引くべきであると主張するが、右遺族補償年金等が支給されることによつてその受給権者が国に対する国家賠償法等に基づく損害賠償債権を失うのはその現実の支給によつて損害が填補されたときに限られ、たとえ将来にわたり継続して定期的に給付されることが確定していても現実の支給がない以上それは遺族にとつては単なる期待権であつて現実の損害の填補とみることは困難であり(最高裁判所昭和五二年五月二七日第三小法廷判決、民集第三一巻第三号四二七頁。同裁判所同年一〇月二五日同小法廷判決、民集第三一巻第六号八三六頁参照)、又、将来支給される分までも現時点で控除するとすれば被害者に対し年金額の限度で損害賠償請求権につき分割弁済を認めると同様の不利益を強いる結果となるので、被告・国の右主張は採用できない。
次に被告・国は、その主張の所得税及び住民税に相当する金額を亡和元の逸失利益から差し引くべきであると主張するが、不法行為等による損害賠償として支払いを受けた金員等を課税対象とするかどうかは専ら立法政策上の問題であつて、その結果被害者が非課税の利益を享受する結果となつても、それは加害者にとつては無関係なことであり、被害者は稼働し所得を得た上で納税するのが本来の形であるから、加害者としては被害者が現実に納税義務を負わされているか否かにかかわらず、被害者が取得すべかりし利益を賠償すべきであり、被害者の逸失利益から所得税等に相当する金額を控除するとなると所得税法第九条第二一号の規定の趣旨を没却し、加害者に不当な利益を与えることになつて相当ではなく、被告・国の右主張は採用の限りではない(最高裁判所昭和四五年七月二四日第二小法廷判決、民集二四巻七号一一七七頁参照)。
又、被告・国はその主張の共済組合掛金に相当する金額を亡和元の逸失利益から控除すべきであると主張するが、同人はその死亡によつて国家公務員共済組合の組合員としての資格を失い将来の掛金の支払義務を免れる反面、同人はもとよりその遺族も将来組合からは何の給付も受けられなくなるのであるから、同人が右掛金の支払いを免れたことをもつてそれ相当の利益を得たとみることはできず、被告・国の右主張は理由がない。
以上のとおり、亡和元が本件事故によつて蒙つた損害は逸失利益金三九四二万七一七四円、慰藉料金八〇〇万円、計金四七四二万七一七四円である。
3 原告井崎ヨキ子の関係
(一) 亡錦治の逸失利益
金二五三四万八三七二円
(1) 得べかりし給与収入
金二〇六六万二〇七八円
亡錦治は本件事故当時、五五歳であつて、運輸省第一港湾建設局新潟工事事務所に勤務し、海麟丸の司厨次長の職にあつて「一般職の職員の給与に関する法律」別表第四海事職俸給表(二)一等級一五号俸が適用され、毎月本俸金一〇万五八〇〇円、調整額金八四六四円、扶養手当金二八〇〇円の支給を受けていたほか、国家公務員の給与関係法令に基づき期末・勤勉手当、寒冷地手当、航海日当、超勤手当を支給されていたことは当事者間に争いがない。弁論の全趣旨に照らすと、運輸省第一港湾建設局では亡錦治と同種の職種の者に対しては六五歳で退職勧奨をしていたことが認められ、これからすれば、本件事故が発生しなければ、亡錦治は六五歳に達する年度末まで(昭和五八年三月末日)あと一一年間は勤務を続けることが可能であつたと考えられる。ところで、右給与に関する法律第八条第六項によれば、一般職の国家公務員は一二か月勤務を続けると、その給与号俸が一号上昇する(定期昇給)ところ、亡錦治については毎年一〇月にこの昇給が実施されていたことは当事者間に争いがない。従つて、生存していれば、同人は昭和四七年一〇月一日付で一等級一六号俸に昇給し、以後毎年一〇月一日付で一号俸上位の号俸に昇給するが、昭和五〇年五月一九日で五八歳になるので右給与に関する法律第八条第六項、人事院規則九―八第三四条の二によりその次は一八か月後に、以後は二四か月毎に昇給する。ところで、本件事故後、人事院勧告に基づき本俸の額について昭和四七年度から同五三年度までの間毎年度いわゆるベースアツプが実施され俸給表の金額が改訂されたところ、生存していれば、亡錦治についても改訂後の俸給表に基づいて給与が支給されたであろうことは明らかである。
そのほか、一般職の国家公務員については右給与に関する法律第一〇条、人事院規則九―六によつて算出される調整額、同法律第一九条の三、同条の四、人事院規則九―四〇第四条の二によつて算出される期末・勤勉手当及び「国家公務員の寒冷地手当に関する法律」によつて算出される寒冷地手当がそれぞれ毎年支給され、又、右給与に関する法律第一一条によつて扶養手当も支給されるが(なお、母親については昭和五七年三月三一日までで扶養が終了すると仮定することについては被告・国も争わないところである)、その支給金額は昭和四七年度から同五三年度までは毎年改訂され、生存していれば、亡錦治についても改訂後の金額が支給されたであろうことは疑いのないところである。
又、亡錦治についてはその勤務の特殊性に鑑み右給与に関する調査第一三条に基づき人事院規則九―三〇の定めるところによる航海日当が支給されるが、生存していれば、同人に対して支給されたであろう航海日当のうち昭和四七年度から同五三年度までの各年度の支給金額を原告主張のとおりとみることは被告・国の認めて争わないところであり、昭和五四年度以降も前年度を下回ることのない金額が支給されるであろうと考えられる。
更に亡錦治には右給与に関する法律第一六条、第一九条に定められた計算方法によつて算出される超過勤務手当が支給されるが、毎月の超過勤務時間を一六時間として算出することは被告・国の認めて争わないところである。
そして、原告井崎ヨキ子尋問の結果によれば、亡錦治には妻ヨキ子との間に長女マサ子、長男一弘の二子があるが、本件事故当時、既にマサ子は結婚しており、一弘も成人に達していたこと、又、亡錦治の母親はいまなお健在で事故当時も同人と生活を共にしていたこと、が認められ、これに亡錦治の年令、職業、職場での地位等を合せ考えると、生活費等として同人のために費やされる分はその収入のうち四割でとみるのが相当である。そこで、これを各年度の収入金額から控除し、年別ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して亡錦治が六五歳に達するまでに得るであろう給与収入の事故当時の現在価額を算出すると、別紙五の(二)「亡錦治の得べかりし給与収入」<略>記載のとおり、その金額は金二〇六六万二〇七八円である。
(2) 得べかりし退職金収入
金四六八万六二九四円
本件事故がなければ、亡錦治は六五歳に達する年度末の昭和五八年三月末日まで勤務を続けることができると考えられることは前述のとおりであるところ、この場合、同人の勤続年数が一八年となることは当事者間に争いがない。そこで、国家公務員退職手当法第五条、第六条、同附則第五項、給実甲第三六二号の規定に基づき(なお、運輸省第一港湾建設局においては勧奨退職の場合は勤続年数が一八年であつても同法第五条を準用して勤続年数二〇年以上の場合と同様の取扱いをする慣行になつていることは弁論の全趣旨によつて明らかであり、右法条を適用して計算することは被告も認めて争わないところである)、同人が六五歳まで勤続したとして、退職時の俸給月額(一等級二三号俸)をもとにして、同人が支給を受けるであろう退職金額を算出し、これからホフマン式計算法によつて年五分の割合による中間利息を控除してその事故当時の現在価額を算出すると、次のとおり、その金額は金四六八万六二九四円である。
なお、昭和五四年度以降のべースアツプ及び特別昇給については亡和元に関し前述したと同様である。
(二) 亡錦治の慰藉料
金八〇〇万円
本件事故の態様、亡錦治の死亡当時の年令、家族構成その他審理に顕れた諸事情を合せ考えると、本件事故のため同人が蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料は金八〇〇万円とするのが相当とする。
(相続)
亡錦治にはその相続人として、妻ヨキ子のほかに長女マサ子、長男一弘があることは当事者間に争いがないところ、<証拠>によれば、右三名の相続人の間では原告井崎ヨキ子が亡錦治の被告・国に対する損害賠償請求権を相続するとの遺産分割協議が成立していること、が認められる。
(損害の填補)
(1) 原告井崎ヨキ子が、昭和四七年中に被告・国から亡錦治の退職金として金一三六万九二〇〇円の支払いを受けたことは右原告の自認するところである。
(2) 原告井崎ヨキ子が昭和四七年六月から同五四年三月までの間に国家公務員災害補償法に基づく遺族補償年金八〇八万六三一六円の支給を受けたことは右原告の自認するところであり、これを年別ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現在価額に引き直すと金六六三万四三〇二円となる。
(3) 原告井崎ヨキ子が昭和四七年六月から同五四年三月までの間に別紙四「被告国の算出表」別表7<略>記載のとおり国家公務員共済組合法に基づく遺族年金計金二四一万〇一三四円の支給を受けたことは右原告の明らかに争わないところであるからこれを自白したものとみなすべきであり、これを年別ホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除して本件事故当時の現在価額に引き直すと金二〇二万四四三五円となる(なお、右現在価額の算定に当つては右別表中「共済組合実支給額」欄記載の初年度の支給額はそのまま現在価額とし、次年度以降の各支給額について中間利息を控除した)。
右(1)ないし(3)の金額を合せると金一〇〇二万七九三七円であり、これを亡錦治の逸失利益から差し引くと、その残額は金一五三二万〇四三五円である。
なお、遺族補償年金、遺族年金、所得税、住民税及び共済組合の掛金等を亡錦治の逸失利益から差し引くべきかどうかについては亡和元に関し前述したと同様である。
以上のとおり、亡錦治が本件事故によつて蒙つた損害は逸失利益金一五三二万〇四三五円、慰藉料金八〇〇万円、計金二三三二万〇四三五円である。
4 原告安土義広の関係
(一) 得べかりし諸手当収入
金一四万二〇四〇円
原告佐藤良次について前述したとおりであつて、事故後の昭和四七年六月一日から同四九年一〇月三一日までの間に原告安土義宏に対して支給される筈の諸手当が別紙三「原告らの算出表」別紙9<略>の該当欄記載のとおり金一四万二〇四〇円であることは被告・国の認めて争わないところである。
(二) 慰藉料 金三〇万円
前認定のとおり、原告安土義宏は本件事故により別紙三「原告らの算出表」別表8<略>の該当欄記載の傷害を負つたところ、<証拠>によれば、そのため同原告は昭和四七年五月二七日から同年六月一七日まで吉田外科病院に入院し、翌一八日から同年一二月二二日までの間同病院及び小山病院に合せて二四回通院し、一旦は治癒したとの診断を受けたが、昭和四九年九月一八日、外傷性頸椎の後遺症が再発し、同年一一月二〇日まで小山病院に通院したことが認められ、以上の事実によれば、同原告が右傷害のために蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料は金三〇万円とするのが相当である。
右(一)(二)を合せると、原告安土義宏の本件事故に起因する損害等は金四四万二〇四〇円である。<中略>
(弁護士費用)
本件審理の経過に鑑みると、本件事故と相当因果関係のある損害としての弁護士費用は、本件口頭弁論終結の時点の現在価額で、それぞれの原告につきその損害等の金額の一割に相当する別紙一「認容金額一覧表」の該当欄記載の金員とするのが相当である。
以上のほか、原告須貝満喜子、同井崎ヨキ子、同阿部仁三郎、同長谷川常光、同星野松夫を除くその余の原告らは、本件事故のために生死の間をさまようがごとく生命と身体に対する切迫した重大な危難に遭遇したことを理由に、そのために蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料として一律に金一〇万円の支払いを求めるので、この点について考えるのに、一般に事故のため生死の間をさまようがごとき危険な状態に陥つた者が幸い九死に一生を得て救出されたような場合には、その者は自らの意思によらないで右のような状態に身を置くことを余儀なくされたのであるから、身体を拘束されその自由を侵害された場合と実質的に同視し得るほどの法益の侵害を受けたものとみることができ、従つて、その被災者は事故について不法行為の責を負う者に対し、その間に味つた自己の生命に対する不安、極度の孤独感等の精神的苦痛に対する損害の賠償を請求し得るものと解するのが相当である。これを本件についてみるに、本件事故は船舶が機雷に触雷爆発して沈没したというものであつて、その乗組員の生命に対する危険性の高いものであることは現に二名の犠牲者が出ていることからも明らかであり、<証拠>によれば、無事救出された右その余の原告らの中には、爆発の瞬間電灯が消えて暗闇となり左舷側に急傾斜し始めた船内から浸水に抗しつつ懸命に脱出した者も少なくないことが認められる。しかしながら、前認定のとおり、本件事故は新潟西港港内の陸地からさほど遠くない地点で、しかも白昼発生したものであつて、事故発生と同時に港内に停泊していた救助艇や漁船が一斉に出動して救助に当つた結果、右その余の原告らは事故後数一〇秒ないし数分という短時間のうちに全員救助されたことは右各証拠並びに弁論の全趣旨に徴して明らかであり、これらの事実に照らすと、右のその余の原告らが本件事故による危難から救出されるまでの間に蒙つた精神的苦痛は、事故によつて蒙つた身体、健康等の侵害に伴う精神的苦痛とは別個に賠償の対象としなければならないほどのものとは認められない。
従つて、被告・国は原告らに対しそれぞれ別紙一「認容金額一覧表」中「認容額(計)」欄記載の当該各金員及びこのうち「損害金」欄記載の金員に対しては昭和四七年五月二七日(本件事故発生の日の後の日)から、「諸手当」欄記載の金員に対しては昭和四九年一一月一八日(「一般職の職員の給与に関する法律」第九条、人事院規則九―七によれば、右諸手当は毎月一七日にその月分が支給されるとされているところ、これからすれば、昭和四九年一〇月三一日までの分の諸手当は少なくとも同年一一月一七日までにはその全額が支給済みとなる筈なのでその翌日)から、「弁護士費用」欄記載の金員に対しては昭和五四年一二月八日(本件口頭弁論終結の日の翌日)から、支払い済みに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。
八結び
以上の次第であつて、原告らの請求はいずれもその余の点に触れるまでもなく右説示の限度で理由があるからその範囲で正当としてこれを認容し、その余を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
なお、仮執行免脱宣言の申立てについては、事案の性質上相当でないと認めてこれを付さない。
(山中紀行 大塚一郎 木下秀樹)
別紙一
認容金額一覧表
(単位円)
原告番号
原告氏名
損害金
諸手当
弁護士費用
認容額(計)
1
佐藤良次
五二〇、〇〇〇
一四三、六二五
六六、〇〇〇
七二九、六二五
2
須貝満喜子
四七、四二七、一七四
四、七四二、〇〇〇
五二、一六九、一七四
3
井崎ヨキ子
二三、三二〇、四三五
二、三三二、〇〇〇
二五、六五二、四三五
4
安土義宏
三〇〇、〇〇〇
一四二、〇四〇
四四、〇〇〇
四八六、〇四〇
5
阿部仁三郎
二二七、九九五
二二、〇〇〇
二四九、九九五
6
漆谷四郎
二二二、七〇四
二二、〇〇〇
二四四、七〇四
7
榎並正吉
二〇、〇〇〇
五九、六二〇
七、〇〇〇
八六、六二〇
8
大森三夫
三〇〇、〇〇〇
二〇七、七六一
五〇、〇〇〇
五五七、七六一
9
小原仙二
五五〇、〇〇〇
二一七、五三一
七六、〇〇〇
八四三、五三一
10
風間孝司
二、二〇〇、〇〇〇
二六八、三三五
二四六、〇〇〇
二、七一四、三三五
11
風間富次郎
二二六、六七〇
二二、〇〇〇
二四八、六七〇
12
加藤公
八〇、〇〇〇
一八、三一五
九、〇〇〇
一〇七、三一五
13
神田克己
一、二〇〇、〇〇〇
一七六、九四一
一三七、〇〇〇
一、五一三、九四一
14
菊池敬三
二〇、〇〇〇
八二、二九五
一〇、〇〇〇
一一二、二九五
15
小島実
二〇、〇〇〇
二二〇、一二九
二四、〇〇〇
二六四、一二九
16
後藤善二郎
一〇、〇〇〇
二六一、七七三
二七、〇〇〇
二九八、七七三
17
斎藤厚則
二〇、〇〇〇
一一七、六二八
一三、〇〇〇
一五〇、六二八
18
斎藤三郎
一八九、五八〇
一八、〇〇〇
二〇七、五八〇
19
坂上長市郎
一、六〇〇、〇〇〇
二〇九、七〇〇
一八〇、〇〇〇
一、九八九、七〇〇
20
佐藤知徳
一二九、一五二
一二、〇〇〇
一四一、一五二
21
佐野芳雄
一五〇、〇〇〇
一五一、八九一
三〇、〇〇〇
三三一、八九一
22
島崎金太郎
三〇、〇〇〇
一一一、六〇〇
一四、〇〇〇
一五五、六〇〇
23
白井喜作
三、三〇〇、〇〇〇
二六六、〇九五
三五六、〇〇〇
三、九二二、〇九五
24
白井茂
三、二〇〇、〇〇〇
二一三、七八一
三四一、〇〇〇
三、七五四、七八一
25
曽我熊五
七〇、〇〇〇
二二六、〇〇一
二九、〇〇〇
三二五、〇〇一
26
高井高
七〇、〇〇〇
一九七、五二七
二六、〇〇〇
二九三、五二七
27
高橋年正
一九八、六六六
一九、〇〇〇
二一七、六六六
28
高橋求
三七〇、〇〇〇
一五〇、四九六
五二、〇〇〇
五七二、四九六
29
高橋理一
一一〇、〇〇〇
二六九、五八八
三七、〇〇〇
四一六、五八八
30
武田作
九〇〇、〇〇〇
二〇一、七二六
一一〇、〇〇〇
一、二一一、七二六
31
田中等
三〇、〇〇〇
二一三、六六八
二四、〇〇〇
二六七、六六八
32
中沢力
一四四、〇五五
一四、〇〇〇
一五八、〇五五
33
長谷川粂雄
五七〇、〇〇〇
九〇、二九〇
六六、〇〇〇
七二六、二九〇
34
長谷川常光
一二三、六九六
一二、〇〇〇
一五三、六九六
35
早川収
一、四〇〇、〇〇〇
八四、八三〇
一四八、〇〇〇
一、六三二、八三〇
36
早川博
三〇、〇〇〇
一八四、八一七
二一、〇〇〇
二三五、八一七
37
伏木昭
九五〇、〇〇〇
一六〇、五九〇
一一一、〇〇〇
一、二二一、五九〇
38
星野松夫
一三三、二五四
一三、〇〇〇
一四六、二五四
39
細井俊
一九、五〇〇
一三八、五〇二
一五、〇〇〇
一七三、〇〇二
40
三浦喜三男
一〇〇、〇〇〇
八五、〇九〇
一八、〇〇〇
二〇三、〇九〇
41
山口勇
一八八、三四一
一八、〇〇〇
二〇六、三四一
42
山下正作
二六四、一九八
二六、〇〇〇
二九〇、一九八
43
山田次郎蔵
六〇〇、〇〇〇
一九六、八八九
七九、〇〇〇
八七五、八八九
44
山舘正利
一六二、〇七六
一六、〇〇〇
一七八、〇七六
45
渡辺広蔵
一、七〇〇、〇〇〇
九二、九五〇
一七九、〇〇〇
一、九七一、九五〇
別紙二 原告らの請求金額一覧表<省略>
別紙三 原告らの算出表<省略>
別紙四 被告側の算出表<省略>